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12月10日 PM 8:02 海鳴市住宅街
「士郎さん、何かあったんかな?」
「うーん、買い物で頼んだ物は全部揃ってるって、ノエルが言ってたけど……」
八神家の居間、八神はやてと月村すずかの二人はそう言いながら困惑した表情を見合わせ、先ほど、正に突風のように立ち去った衛宮士郎の姿を思い浮かべた。
彼はすずかが家に来たと同時、
『ごめん! 私用を思い出した!』
と言って、荷物を置いてある場所をノエルに伝えた後に飛び出して行ってしまったのだ、余りのスピードに、その場にいた人達は唖然とした様子でそれを見送る他無かった。
「シャマルも何か慌ててたようやし……何や最近、周りが慌しい気ぃするなあ」
はやての言葉に、不思議そうな表情のすずかが口を開く。
「でも、士郎さんが途中で仕事を放り出すのは珍しいな」
「え? そうなんか?」
「うん。士郎さん仕事に対してはかなり真面目だから。言われた仕事をきっちりやるだけじゃなくて、頼めばどんなに忙しくても時間を作って作業してくれるし……ただ、どんな事でも嫌な顔せずに最後までやってくれるから、逆に頼み辛いってファリンが言ってたけど」
「へえ……」
考えてみれば、図書館で初めて出会った時も周りの視線を気にせずにはやてを救出していた。それだけでなく、はやての体を運んだり、車椅子の状態を調べたりと、まるでそうする事が当然であるように行動していた感じもする。あの時は親身になってくれる親切なお兄さん程度に考えていたのだが……。
(なんやろな……この感じ)
どうにもはやては一抹の不安を感じずにはいられなかった。
士郎のその心がけは立派だ。今時の……というにははやても若すぎるが、少なくとも、同世代の男性を基にして考えた場合、そんな気持ちで行動出来る者が早々いない事くらいは理解できる。
だが、理解できるからこそ、その異端さも浮き彫りになる。
士郎の行動は裏を返せば、善意の押し付けと捉えられても仕方が無い。助けるだけ助けて、相手が裏切ったとしても「自分がやりだしたのだから仕方が無い」で納得してしまいそうな一種の危うさがあるように思えてならないのだ。すずかの話を聞く限り、それも可能性としては頷ける話だ。
今日、はやての家に来た時の行動も、考えてみればはやてをさりげなく気遣うような行動が多々あった。本人にとってはなんでもない事なのだろうが、その様子がまるで何かに突き動かされているように見え、その背中を見る度に、はやての中にある光景が浮かび上がるのだ。
夢の中
たった一人きりの丘、墓標のように連なる剣だけを友に、寂しく笑う青年の姿――。
「――はやてちゃん?」
「!」
やがてかけられた声に、びくっと小動物のような反応とともにすずかを見つめる。見つめられた当人は、そんな反応が返ってくるとは思いもしなかったのだろう、こちらも驚いたような顔ではやてを見つめていた。
その状態に気づいたはやてが、慌てた様子ですずかに謝る。
「ご、ごめんな。ちょっと考え事してて……いきなり話しかけられてびっくりしてもうたわ」
あはは、と苦笑を浮かべながら言うはやてにすずかの表情は驚いたものから、徐々に変化していく。
「何か、はやてちゃん深刻そうな顔してたけど、大丈夫?」
どうやら、こちらの様子を心配してくれたらしい。その事に、感謝と謝罪の織り交ざった複雑な胸中を隠しながら、笑顔を向けるはやて。
「うん。もう大丈夫や……せやけど、ごめんなすずかちゃん。皆いなくて」
「ううん、いいよ。でも、これだと先にお料理に手を付ける訳にもいかないね」
「せやな……」
暫しこの状況をどうすべきか考える二人。時間的にいつになるかは判らないが、このまま待っているというのも選択肢の一つだ。今夜は鍋という事で、皆が帰ってきたらはやて家+すずか家関係者という大所帯での賑やかな食卓になり、それに期待していないと言えば、かなりの部分で嘘になる。
だが、だからといってお客様をお待たせする事も失礼に当たるのではないか、そんな考えからどちらに転ぶべきかを思考し悩んでいたが……ノエルからの進言もあり結局はこの日の皆での晩餐はお預け、という形になった。すずか、はやてとも残念だが、それは致し方なかった。
その後の更なる話し合いで、はやてを月村家に呼ぼうとすずかが言い出した時は流石に驚き、当初は迷惑をかけることに抵抗があったため固持していたものの……結局は二人の言い分にはやてが折れる形で同行する事になった。お友達の家にお泊りイベントなど、はやて自身昔では考えられなかったイベントである。
とりあえず、手短に荷物をまとめるため、自室へと向かおうと車椅子の車輪に手をかけた……その矢先。
「あれ……? なんやろ? これ」
コツ、と音がして徐に下へ視線を向ける。
そこで、彼女が見たものは――――。
――――飛べ――――
当時、青き槍兵の襲撃の際に聞いた言葉が脳裏に甦った。
あの頃は今以上に未熟で、ひたすら我武者羅に自身を鍛え、誰かを助けるために邁進していた記憶しかない。
アイツの台詞では無いが、血の匂いを伴わぬあの頃は、やはり魔術師としても正義の味方としても青二才に過ぎなかったのだろう。元々、自分が知っていた狭量な世界に命を懸ける様な出来事は無かった。だから自分の裁量を遥かに超えた出来事に対して、自分は思ったものだ。
なんて、無様。
それを今更ながら思い出すという事は、今のこの出来事があの頃の記憶を、引き出す切っ掛けになっている事が大きい。
たった数日、凄惨な戦いの日々を忘れた事で自分の勘が錆付いたとでも言うのだろうか?
自身は巻き込まれていない……そんな先入観を持っていた事を笑いたくなる。
あの時言っていたではないか、厄介ごとに巻き込まれる可能性があると、自身の口から!
(全く……どうかしてる――――!)
現在の状態を確認。
突然の襲撃に、身体が宙に投げ出された状態。
犯人の顔は見えず、自分の目の前の暗い空が、視界に映る唯一の景色。
ならば次の行動は簡単だ。
身体を多少でも強化して出て行った事が幸いした。それが衝撃を緩和してくれた事で、次の行動が思ったよりもスムーズに取れる。
受けた衝撃を受け流し、体捌きだけはやや強引に、空中でくるりと横回転に旋回する。そうして、足下から着地する様に細かく体勢を調節し、来るべき衝撃に備える。
ずだん! という地面が凹みかねない衝撃と共に、砂煙を上げながら、暫く地面を滑り続ける。摩擦で足裏が熱を持ち、少しでも滑る距離を短くしようと足を踏ん張る。
そうして数メートルほど滑り続け、ピタリと止まった瞬間、備えておいた言葉(じゅもん)を開放した。今度は先ほどのような中途半端なものではなく、きちんとした手順を踏んだものだ。
「同調、開始――――っ!」
瞬間、交差した腕に衝撃が走り、過負荷に耐える両腕が僅かに軋みを上げる。それだけでさらに数センチ自分を押し下げた相手の力量に、心の中で驚愕を浮かべる。
(予想、通りか……っく!)
ミシミシと軋みを上げる腕の交差、その衝撃を無視して隙間から視線を外に移す。そこから見えた姿に、思わず眉をしかめた。
(こいつ――)
そこには、奇妙な仮面を付けた白い男が立っていた。身長はかなり高く、引き締まった体躯にハイキックを放った状態でも微動だにしない安定した足運びから、かなり鍛えている事が分かる。
キャスターのマスターとして驚異的な体術を放った葛木の場合、パワーよりも、蛇の様に変幻自在に変化する技に翻弄されたが、これは何の策も捻りもない無骨で洗練された印象を受ける。これが正道の拳士の動きかと邪推するが、拳士としての戦い方を知るのが先ほどの彼と男装の執行者なだけの時点で、余り参考にはならないだろう。
さて、どうするべきか。時間を稼ぐ意味合いと素直な疑問を兼ね、冷徹なイメージを持つこの男に対して口を開く。
「お前がこの結界……いや、ここにある結界全てを張った張本人なのか?」
「…………」
返す言葉は無く、無言で足先の力を込める男に対し、押し負けないようにしっかりとした足腰で押し返す。そうやって意図せず力比べとなっている最中、男が僅かに口を開いて呟く声が聞こえた。
「――解せんな」
「っ!」
その一言と共に、ふっ……っと、今まで押し返していたはずの力が消失する。体勢を崩した為に前のめりになりそうな体を支えようと、足を一歩踏み込んだのに合わせるように、両腕のガードを崩そうとするかの如く、右足の一撃が叩き込まれた。何とか押さえようとした努力も虚しく、後ろへと傾きそうになる体勢に舌打ちし、衝撃を受け流すように飛び素去る。
それを確認した男の方は、短距離走のクラウチングスタートの選手のように体勢を低く屈めた……と思った次の瞬間、爆発するかのような衝撃を残し、ロケット弾のような速度で飛び掛ってきた。速度を上乗せし、一気に決めるつもりか。
頭は冷静に次の行動を意識する。先ほどもかなりのパワーを見せつけられた所だが、対処の方法というものを学ばなかった訳ではない。
敵の歩法や微かな体運びから次の行動を予測し、それに合わせて適格な力で攻撃を捌けるように思考、行動する。そして予測通りのタイミングで力任せに打って来た拳打を、強化した左腕を掠めるようにして受け流した。かすった服の部分が摩擦熱によって擦り切れるが、本体そのものにダメージは無い為、無視。
先ほどの揚げた二人の戦い方と比べれば、こちらはどちらかと言えば手よりも足技を中心とした接近戦(クロスレンジ)主体のようだ。事実、最初の拳以降はフェイントを交えたハイ、ミドル、ローの三点に絞った蹴り技である。危なげなく防ぎ、かわしながら、その鋭さに戦慄を受ける暇も無い。
武装無しの接近戦主体の技能も習っておいて良かったと思えるが、気紛れに付合った凛やルヴィアとの組み手とは次元が違う。どうにかしてこちらのペースに持って行けなければ不利は揺るがない。攻撃を捌けてはいるが、無傷とは言いがたい現状からもそれは明らかだ。
こういう時こそ投影魔術の出番なのだが、この猛攻に合わせて使うにはもう一つ、何らかの策が必要だ。
戦法は一つ思い付くが……果たして上手く行くかどうか。
(けど、やるしかない)
相変わらず素早く、的確に飛んでくる攻撃に対して、一発、わざと……ただし怪しまれない程度に身体を傾けさせ、決して急所に当たらないように注意しながら……まともに受けるようにする。瞬間、痺れを伴う痛みが全身に伝播(でんぱ)した。予想以上の力にそれでも何とか踏み止どまろうと足に力を込めるが、演技でなくバランスを崩しそうな体勢に俄かに焦る。
(このっ、何て馬鹿力だよ!)
若干、予想とは違ったものの、それに見合う効果はあったらしい。ここが攻め時と踏んだか、相手は必殺の一撃を出す為か先ほどとは違い、やや大振りな動作で……それこそ常人ならば気付かない程度にフェイントをかけながら踏み込む。それが「見えた」
(今――――!)
それを冷静に観察しながら、頭に描いた設計図、待機状態のそれを開放した。
「投影、開始」
魔力が、ラインを通じて実体化する。それを感じる事ももどかしく、まさに突風といった速度で自分に迫るミドルキックに合わせるように左手を突き出す。
瞬間、時が止まった。
自分の手に生まれる出来かけの剣。それが相手の攻撃とぶつかり、火花が生まれる。
何とか攻撃は受け流したものの、それも完全ではなく、掠った額から血が溢れる。その一滴がひたり、と額から落ちるのすらもまるでスローモーションのように流れ……。
「!」
相手がそれに気付く。だが、遅い。
自分は確かに剣を持っていた。もはや十年来とも言える相棒と化した夫婦剣、その片割れである「干将」で相手の蹴りの方向をいなし――――そして。
「投影――――」
何も無い「素手」に魔力を込める。この一瞬の隙だけのために、組み立ててきた戦法を生かすように、別のラインから生み出す二対一陣のもう片割れ。
「――――重装!」
相手の死角、蹴りを放った姿勢のまま硬直する数瞬を使い、踊るようにくるりと半回転、そのまま相手の懐へと一瞬で詰寄り、右手を突き出す。
手の中で、魔力ラインの光と共に迫(せり)上がる「莫耶」それをしっかりと握り締め、
パワー、スピード、全てが未だかつて無いほどのタイミングで突き出されたそれは、
あろうことか、
高速を超える、神速とも言うべき手刀によって、叩き落された。
(なっ!)
まさか、この攻撃まで防がれるとは思っていなかったが……次の手を考える前に相手が先に体制を崩し、苦し紛れの回し蹴りを放ってきた。
それで確信する。自分の攻撃は効いていないわけではない。ただその技量差から、ここで逃がせば自分が不利になる。そう考えただけで体の方は動いてくれた。
スウェーバックのように上半身だけを後ろへ傾け、顔面を狙ってきた蹴りを避ける。ぶん、と風の音が前髪を揺らし、チリチリと泡立つ肌が蹴りの威力を物語っているように思えた。
紙一重で避けた上半身を素早く戻し、体制の崩れた相手を追う。さすがに打ち止めか、技後硬直を起こしたように立ち止まる相手に止めを刺すように、干将・莫耶を振り上げた速度そのままに振り下ろす。
十字の軌跡を生みながら交差する刃と刃。それが、ガチリと何かを噛む音が聞こえた。
「くっ!」
何もない地面を貫いた銀光を自分が確認している間に、どのようなトリックを使ったのか、仮面の男の姿が自分から数メートル離れた地点に出現していた。
余りに人間離れしたその動きは悪夢じみているとさえ言えるが、男が行動を行うたびに漏れ出る魔力を完全に消し去る役目は果たせていないようだ。
恐らく、自分と同じように魔力を駆使した身体強化か、一定の魔力を用いた何らかの瞬間移動の類と言った所か。自分の「世界」では過去に滅ぼされたという一族にそのような動きができる者もいると聞いた事があるが……身体能力だけでこの現象を説明するのはあまりに非常識すぎる。
(参ったな……)
すばやく体制を立て直したそこに、追撃は無い。
あの一瞬の攻防で相手も警戒したのだろう、五メートル程の間合いを開け、再び対峙するその構えに、先ほどには無かった重みが加わる。
どっしりとして相手の出方を伺うその姿勢に、絶好のチャンスであったあの一瞬を避けられたショックは決して小さくない。
相手がこちらの出方を伺う以上、こちらも下手に仕掛けるわけにはいかない。腰を低く、腕を前に構える状態でこちらを伺う相手に対し、こちらは両手に持った干将・莫耶を構えるでもなく、だらりと腕を伸ばした状態を維持。
戦いの相性ではどうかはわからないが、このままこの状態を維持していても事態は全く推移しない上に、時間をかけるほどにこちらが不利になっていく事に変わりはないので、成るべく早く対応を考える必要があった。
今現在の衛宮士郎の剣技は、相変わらず体の変化に完全には追い付いていけていない。そんな状態もさる事ながら、元々自分は攻撃よりも防御に本領を発揮するスタイルである。
言わば相手に「攻めさせて落とす」これは相性云々と言うよりも、そんな戦い方を行う機会があまりに多く、自然と身に付いていってしまったという方が正しい。苛烈なる剣技……サーヴァントクラスとは流石にいかないまでも、防戦に徹すれば代行者や執行者であってもそこそこ耐えられるだろう自負はある。
結果、アイツの剣の特徴でもあったそれをさらに模倣し、鍛えていくことになった事は皮肉なものだったが、衛宮士郎が短期間で驚くほど技術を向上させたのは事実のため、文句も言えない。ただ、後の先を取る関係上、先の先を取る戦いにおいて、攻撃の選択肢がおのずと限られてしまうのがネックであった。
戦力的には徒手空拳と双剣ではあるが、実力的にこちらが有利になるような要素は無い。そんな状況であっても、それでもここで引くわけにはいかなかった。
どんな時でも取れる手は尽くしてきた。それが必要であったし、そうしなければ生き残れない……そして、それ以上に誰も救えない状況などざらだったからだ。
そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、静かに構えた仮面の男から言葉が発せられる。
「――イレギュラーか。なるほどな」
「……?」
先ほどからの要領を得ない言葉に、若干自分の眉が歪む。だが、それを気にする前に、先ほどから無口であったことが嘘のように仮面の男が続けて口を開いた。
「悪いがお前をあの場所に近づけるわけにはいかん。ここで倒れてもらおう」
「お前……何を企んでいるんだ?」
「…………」
淡々とした口調のそれに油断なく意識を向けながら、こちらもその意図を測ろうと口を開くが、男のほうは話はそれで終わりだと言うように再び沈黙する。勝手なものだが、それを気にすることよりも、自分にはダメ元でも確認すべき事があったのを思い出す。
「あそこで何をやっているのかは知らないが、あれは間違いなく魔術師同士の争いだ。こんな街中で短期間に続けて戦いがあるなんて普通は有り得ない。一体この街に何があるって言うんだ?」
「――何?」
純粋な疑問だったのだが、どうやら相手の興味を引くことはできたらしい。微かに驚くような間が一瞬あった後、次いで探るような気配を自分に放ってきた。
「惚(とぼ)けているつもりか?」
「何の事だ? 俺はただ疑問に思った事を口に出しただけだ。お前がここで起きてる事件の元凶では無いのか?」
「…………」
どうにも話が噛み合わない。腹の探りあいのようにお互いがお互いの言葉に耳を傾け、その度に驚く。どうやら互いに致命的な情報の齟齬があるようだが、それが何であるかなど見当も付かない。
世界の違い故か、はたまた他の何かか……だが、それを思考するのは後回しだ。
「……まあ良い。貴様を足止めさえ出来ればそれで済む話だ」
じゃりっと足元の砂を噛む様にして、男がにじり寄る。それを目の前にして、剣を握り締める両手に、知らず知らず力が篭る。
最早お互いに言葉は無い。次の一瞬で、再び力と力の凌ぎあいになる事を予感し、徐々に高まる緊張感から、バクバクと心臓が高鳴る。
切欠があれば、自分たちは再びぶつかる。
知らず知らずヒートアップしていく体……たわめた力を解放せんと、緊張感が極限まで高まった瞬間――――。
自分と男はほぼ同時に動いた。
互いに「後ろへ向かって」全力で飛び退る。
瞬間。
黒い雷による、膨大な魔力を宿した一撃が、目の前……先ほど目指していたドーム状の結界に突き刺さり、それに比例して大音響を立てる。
「!」
「な……ぐっ!」
まるで侵食するように激突しながら散らす光は、さながら神の怒りのごとく。その余波が自分と男の体に突風のように叩き付けられる。
ここから肌をあぶる様な力の片鱗を感じるだけでその規模は軽く予想できる。まともに地面にぶつかっていれば、ここら辺一帯が焼け野原になっていてもおかしくない程の力。
だが、自分が感じ取ったことはそれだけではなかった。
あの光を見た瞬間、自分の中でぞくりとした感覚が浮かび上がったのだ。
あれは――――まずい。
何の根拠も無いが、それでもこれだけはわかる。あの光は全てを飲み込み、そして破壊し尽くす。
あれとよく似た光景を自分はよく知っている。忘れもしない。それは、その、光景は――――。
そこまで思考した瞬間、体のほうが自動的に反応していた。
炻けるような魔力爆発に合わせるように、手に持つ二刀を投げ捨て、二十七の回路を総動員し防御魔術を構築する。
それは盾。ギリシャ神話の英雄ヘクトールの槍を防いだとされる、自分が展開できる中で最強の防御力を誇る一品。
魔力の光に照らされて顕現(けんげん)する淡い光の花弁、それを展開すると同時、まるで洪水の如き魔力流が自分に襲い掛かってきた。
それは、あらゆる物を飲み込み、じりじりと盾の内側を侵食するかのごとくその魔手を伸ばしてくる。
一枚……。
二枚……。
侵食され過負荷に耐えかねた花弁が砕け散る音が聞こえる。
冷や汗が流れる。まるで雪崩の只中にいるかのような衝撃を、歯を食いしばって耐える。
一撃の魔力の強さ自体は「人類最強の聖剣」や「世界を分かつ魔剣」クラスには若干及ばない。だがこの攻撃にはそれとは違う何かがある。
そう、これは。
十五年前、炎の中の黒い太陽と同じ物では無いだろうか?
「使え――――」
シャマルは最初、その男が何を言っているのか理解できなかった。
いきなり現れ、管理局員に魔法攻撃を行った男。それはいつぞやシグナムから聞いた容姿と合致していた。
能面のように冷酷に光る仮面。そこから発せられる音を理解する前に、男が更に口を開く。
「闇の書の力を使って結界を破壊しろ」
その言葉に、シャマルはその男を怪しむことも忘れ、必死になって抗弁する。
「でも、あれは――――!」
ザフィーラとの会話でも言っていた「あれ」……闇の書と自身をリンクさせ、純粋魔力の爆発を結界にぶつける荒業。
闇の書の膨大な魔力は、使いこなす事が可能ならばSSSランクの力ですら扱う事が出来る。この程度の結界を破る事など、赤子の手を捻るより簡単であろう。
だがそれは同時に、今まで蒐集してきた魔力を使ってしまう事を意味する。
闇の書の主たるはやてのため、自分達が時に命がけで集めてきたそれは、早々に使って良い物ではない。だが、そのシャマルの発言も意図のうちだったのか、男の方は先ほど吹き飛ばした管理局員を油断無く見据えつつ、呟く。
「使用して減ったページはまた増やせば良い……仲間がやられてからでは、遅かろう?」
「…………」
まるで甘言のように染込んでいく言葉、それを感じながら、シャマルは悩むように表情を歪める。それに畳み掛けるかのように続けられた言葉に、今度こそシャマルは驚愕する事になったが。
「悩む必要はあるまい。『予定していたよりも順調に魔力蒐集が行われている現状』で、数ページの損失などすぐに挽回できよう」
「! なぜ、それを……」
言ってしまってから、シャマルはしまったとばかりに表情を歪める。そこに何を見たのか、男はそれ以上何も語らず……やがて、何とか立ち上がってきた黒ずくめの管理局員に追い討ちをかけるかのように空を疾駆して行ってしまった。
それを声も無く見送りながら、暫く黙って何かを考えていたシャマルであったが……瞳を一度閉じ、決意するかのように見開かれた目には強い意思が灯っていた。
『みんな! 今から結界破壊の砲撃を撃つわ。上手く躱して撤退を!』
『応!』
阿吽の呼吸で仲間達へと念話を終えた瞬間、闇の書自身がシャマルの意志に応えるかのようにひとりでにフワリと浮かび上がった。
パラパラとめくりあがる書のページを見つめながら、シャマルは集中するかのように無言で瞳を閉じ、言葉を紡ぐ。それはまるで詠うようにやさしげでありながら、死刑を宣告するかのごとく厳かでもあり、畏怖と戦慄を見る者に与えるだろう。
「闇の書よ、守護者シャマルが命じます――――」
その言葉に合わせるように、シャマルの足元にヴィータがいつぞや見せたものと同じ幾何学模様……古代ベルカを象徴する巨大な魔方陣が、ビルの屋上を埋めつくすように広がる。
「彼の敵を打ち砕く力を――――」
静かに凪いでいた風が、徐々にではあるが収束するように風向きを変えていく。それは空の雲を操り、螺旋に巻き込むかのような回転と共に徐々に強くなっていく。
「今、ここに――――!」
その瞬間、一条の黒き光が、闇の書を中心に吹き上がる。それは暗雲を形成し、いつ落ちてもおかしくない雷雲として形成される。
そして――――。
「撃って――――破壊のいかず……」
まるで神の裁きのごとく光臨しようとする黒き極光。だが、発動の言葉を言い終える前に、シャマルはビクリ、と……心臓に電気ショックを受けたかのようにその体を跳ね上げた。
(っ!)
何が起こったのか分からなかった。気が付けば自分の身体が痙攣したようにガクガクと震え、まるで背中に氷柱を差し込まれたような、冷たい戦慄が背筋に走る。
思考は千々に乱れ、やがて自分の自我にも食い込もうとするかの様に牙を向く。その事に抵抗する間も無く、容易く精神という防壁を超え、心を侵していく。
『――! どうし――シャ――っ!』
『おい――なって――!』
『――――!』
誰かが何かを言っている声が聞こえるが、シャマルは既にその言葉に反応する事すら出来ない。
気が付けば、シャマルは一人、何も見えない深淵の中にいた。
目の前は真っ暗だ。光すら届かないそこに、何かが蠢いた。
ビクリ、と再び震えが走る。
それが何かを認識していない。だが、シャマルの本能が告げる。それには決して触れてはいけない……と。
「あ――――」
逃げないといけない。もし触れてしまえばもう戻って来れない。それなのになぜか身体は言う事を利かず、まるで蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つ取れない。
「あ、あ、あ……」
やがて、心を完全に塗り潰そうとした瞬間、シャマルは声にならない声で絶叫していた。
「――――――――!」
その瞬間、破られた結界が悲鳴のごとく上げた音と共に、さながら核攻撃と誤認しそうな凄まじさで膨張する黒い光の防壁に、海鳴の街は飲み込まれていった――。
激しい魔力流によって、また一枚、花弁が砕け散る。
洪水のごとき流れは治まる気配を知らず、現在行使できるありったけの魔力を防壁へと注ぎ込んで何とか維持しようと額に汗を浮かべる。
無我夢中であったためか、盾の投影として成功した花弁は本来より少ない五枚。
これを破られれば、無防備な自分に対し、力の奔流が襲い掛かって来る事を予測することは容易い。
それだけは避けようと歯を食いしばりながら、突破されんように右手で左手首を掴み、暴走しそうな魔力回路を宥(なだ)めながら、集中を続ける。
やがて、その努力が報われたか、五枚目を食い破られる直前で漸(ようや)く嵐のような奔流が止んだ。
それに合わせるように、盾を維持していた魔力を開放……というよりも、維持の限界だったか、音を立てて最後の一枚が砕け散った。
「は――――あ……」
力が抜けると同時に、辺りには嘘のように静寂が返ってきていた。
先ほどの男の姿は無い。確認した限りでは、自分が防壁を張る直前に取り出した「何か」を振るう姿を辛うじて確認する事は出来たが……その後、姿を見ないところを見ると、自分よりも一足先に逃走したのだろう。
見れば、結界の魔力も一週間前のあの時同様、徐々に、しかし確実に晴れていく。それを見やりつつ、取り合えず先ほどと同じ轍を踏まぬように警戒だけは緩める事無く、辺りを見回す。
(あれほどの魔力を放っておきながら、街への被害は見た所無し……か。本当、出鱈目だよな)
これが最初では無いとは言え、その力の片鱗に戦慄を感じざるを得ない。
あの攻撃。まるで核爆弾が落ちたような破壊力と同時に、得も知れない戦慄を自分の中に植えつけた魔力。
その事に付いて反射的に思考しそうになり……やがて、ゆっくりと首を左右に振り、その考えを打ち消した。
(いや、まだ答えを出すのは早計だ……だけどもし、もし「あれ」と同じものがこの戦いで関係しているのならば)
今はもう普段と変わらないような夜空を広げる街並み。それを見上げながら瞳は厳しく歪み、握り締めた拳に知らず、力が入る。
今起きているこの街の戦いに、おそらく先ほどの力が関係している事は間違いないだろう。そしてそれを前にした場合に、衛宮士郎は全力でそれを止めなければならない。
下手をすれば、冬木の街で起きた災厄に勝るとも劣らない事件がこの街で起きていることになるのだ。
十五年前の自分は、それに対して無力だった。
五年前は、協力してくれる仲間と共に何とかそれを治めることが出来た。
正直に言えば、「あれ」と同じ事件が起きた時、自分の力だけで治めることが出来るとは思えない。
だが……それでもやらなければならない。誓ったのだ。自分は「正義の味方」になると。
あの戦いで救えない人は何人もいた。見殺しにしてしまった人もいた。そんな悲劇を二度と繰り返してはならない。
「今は考えても始まらない……か、取り敢えずは……」
気持ちを切り替えるように一度、大きく息を吐く。
辺りを警戒してはいるが、現場からいくらか離れているとは言え、これ以上ここにいることがあまり得策ではない事は確かだ。組織的な人員がこの事件に絡んでいる事は、あの時の騎士の言葉から窺い知ることが出来る。あれだけの力だ、良からぬ事を企む輩は吐いて捨てるほどいるだろう。
組織を敵に回したときの戦いを行う事も慣れてはいるが、現在の状態では迷惑をかける人々がいることは確かだ。何か良い策を考えるか……最悪、月村家とは距離を置く必要があるかもしれない。
取り敢えずの今後の方針を決める為にも、一度ここを離れ、どこか落ち着ける場所で考えをまとめる必要がある。そうして、士郎は一人、踵(きびす)を返すと、来た時と同じように全力で駆け出した。
ただ一つ、今度こそ、誰も悲しませずに全てを救ってみせると、強く誓いながら。
「あれ?」
しばらく走っていた時に感じた違和感に一度立ち止まり辺りを見回す。
場所は、先ほどの戦いの場所とはやての家との中間辺りか。近所に小さいながら児童公園を見ていた事を思い出し、そちらに向けて全力で走っていた……その時の事だった。
(これって……)
自分の感覚に僅かながらに訴えるもの。
魔力の片鱗。何らかの術式を構築している最中なのか、構築し術式が発動しようとしている瞬間か。
向かう先の公園、その場所から、僅かながらそれが漏れ出ていたのを感じたのだ。
それに何か反応しようとした瞬間――――。
光――――人口の物から出るには不自然な、まるで発光するかのように強い光が一瞬、公園から立ち上がる。
「な――――これは!」
小規模の……先ほどの結界を破壊した魔力とは比べ物にならない位に小さいものの、それでも一般的な魔術行使にしては大きめの力が発せられる。
それは、暫く辺りを眩く照らした後、すぐに治まり……やがて何かが倒れこむようなドサリとした、微かな物音が聞こえてくる。
躊躇自体は一瞬だったように思う。なるべく気配が漏れでないように注意しつつ、その場所へと駆ける。
走りつつ現在の状態をチェック。あの戦いでかなり魔力を使ったために少々心許ないものの、投影の一,二回程度であれば可能だ。問題は、自分の接近戦で敵わない敵があの場所にいる場合の対処の仕方についてだが。
(あそこにいるのが、あの時の騎士と同レベルの者であれば、自分が敵う道理は無い。今日会ったあの男もかなりの強さだったし……あまり安心は出来ない、か)
公園に踏み込む前に、ざっとながら辺りの状況を確認する。
平日であれば子供たちが賑やかに遊ぶであろうその場所は、今は人の気配も無く、落ち着いた夜の景色の一部として機能しているように感じる。
魔術特有とも言える澱んだような空気や、肌を刺すような不快感も今の所は感じないが、外からでは見えない何らかの結界がある可能性も否定できない……一つ息を付くように深呼吸をした後、ゆっくりとした動作で一歩、公園内へ足を踏み入れた。
そのまま二歩、三歩と足音を殺し、極力体を振らず、些細な物音をも聞き逃さない体制を維持しながら魔力回路を起動する。先ほど一度煮え湯を飲まされた事もあり、普段以上に警戒心は跳ね上がっている。それが良い事か悪い事かは判断出来かねるが。
目に付いた手近な木の陰に身を潜めながら、どこから反応が来ているのか探ろうと、気配を殺した状態でゆっくりと視線を先ほどの魔力反応があった場所へ向けようと振り向いた……その瞬間。
(! 人が……)
ちょうど自分がいる場所……公園裏の死角部分、そこからやや離れた場所に、人一人分の影法師が微かに喘ぐような息遣いで倒れていた。
周りの状態をチェックしたが、その他の人間の気配は今の所感じない。
何かの罠である可能性も探ったが……演技にしては、あまりにも人目に付かないこの場所でこんなことをする説明が付かない。不特定多数の人間を狙うならばもっと上手い方法もあるだろうし、自分の事を探りつつ罠を仕掛けるには流石に手が込みすぎている。
そうすると、何か魔術的な事故でもあったのか……そう考えていた思考がぴたり、と止まった。
何故その瞬間かは知らないし意味が無い。自分が見つめていた事に合わせる様に、明かりの切れ掛かっていた街頭がいきなりパチッと光を発した。まるで最後の悪あがきの如く。
「――――――」
息を呑んだ。一瞬信じられない物を見たような気がして瞬きをする。見間違いかと二、三回目を擦り……再び視線を向ける。
状況は変わらなかった。そこには自分が知る人物の顔、その苦しそうな表情が、街頭の明かりの元どうにかといった様子で立ち上がった際に、今度こそハッキリと映し出された。
似ている……というよりも、似すぎていて逆に疑うことが不自然な気さえする。
一瞬、様々な考えが頭を駆け抜ける。これからの行動、思考、それらが綯い交ぜになって……やがて、一つの結論を結ぶ。
一瞬だけ、これからの行動が今お世話になっている人々に、迷惑として降り掛かる可能性も懸念したが……今はその事をじっくり考えるほどの余裕が無い。
これからの行動は、常人にとってはかなり危険な橋を渡ることになるのは間違いない……士郎としても個ではなく組織としてそれに係わり合いを持っていたならば、躊躇したかもしれない。
それでも、この機会を逃す事と秤にかければ、やるだけのメリットもある。それに、今までのモヤモヤしたものを、この時点で一気に解決できるかもしれないのだ。
(乗るか、反るか……鬼が出るか、蛇が出るか、か)
緊急事態には即座に対応できるように注意しつつ、ゆっくりと近付いていく。なるべく物音を立てず、自身の内界にある存在を外界に合わせ、存在感を薄くする、とでも言えば良いだろうか?
言葉で表現するのは難しいが、ようはアサシン……とはいかないまでも、先ほど戦った男がやった気配殺しと、理屈は似ている。
なるべく自然体に、身をかがめ獲物の様子を伺う豹のような……野生動物ならば本能的に獲得しているそれを、前面に出し、反応があった場所から背後に回るように迂回する。そして、わざと音を立てるかのように枯れ枝を踏み込み、その言葉を発した。
「……シャマル、さん?」
――――漸く、出会ったか――――
「……?」
一瞬、何かが聞こえたように辺りを見回すが、ノエルやすずか達が準備をする音以外には何も聞こえない。空耳かと首を振りつつ、改めてはやては下……グレーのカーペットの上に視線を落とす。
はやてが視線を向けたその場所、そこに銀の鎖のような物が見えた。それが車椅子の車輪の下敷きになる直前だったと知り、慌てて車椅子をバックさせる。
そして、それを見据えた瞬間、はやては息を呑んだ。
「なんやこれ……なんでこんな物が……」
驚きに見開いた視線で、車輪の陰から赤い光が反射する。
血のように赤い……ルビーだろうか? イミテーションの類かと思ったが、それにしては輝きが違うような気がする。と言っても、はやても宝石などに見慣れているわけでは無いので、ただ単にそう思っただけだが。
呆然とした様子を、偶々近くを通りかかったノエルが見つけ、何事かとはやての顔、そしてその視線の先を覗き込んだ。
「どうかなさいましたか……あら、これは――――」
その瞬間、ノエルも驚いたように目を見開き、一瞬の躊躇の後、それを拾い上げた。
「士郎さんの……まさかこのような場所に落ちているとは、よほど慌ててらっしゃったんでしょうか?」
「これ、士郎さんの持ち物なんですか?」
はやての問いかけに、ノエルは少々複雑そうな表情をしながら頷く。
「はい。恩人から預かっている大切な物なのだそうです。ですが珍しいですね。肌身離さず持っているこれを士郎さんが落としていくなんて……」
本当に不可解な事なのか、ノエルの声は少々固い。
やがて、拾い上げたそれを困った顔で見つめていたノエルが、おもむろに立ち上がり、思案するような表情で思考し始めた。
「さて……届けたいのは山々ですが、あれから士郎さんはどこへ行ってしまったのか――」
「あ、あの……」
「?」
その時のはやては、自分でもなぜそんな事を言い出したのか、判断はつかなかったそうだ。
ただ、そうしなければいけないような……強迫観念? とも違う、何かしらの意思のようなものが働いたと、後になって言っていたことが印象的だった。
「それ、私が士郎さんに渡しても良いですか?」
「え?」
いきなりのはやての言葉に当初驚いた顔をしていたノエルであったが、はやてがお世話になった事も兼ねて、改めてお礼が言いたいと、一生懸命に言われて……結局最後には、やわらかい微笑で「では……」と預ける形になった。
落とさないように注意して受け取りながら、はやては呑まれるように視線を送る。赤というよりかは緋の色に近いそれに、歪んだ形で自分の顔が映っていた。
鏡面のような澄んだ色を写すそれを抱えつつ、なぜこんなに惹かれるのか、それを考えながら……結局答えは出ず、すずかに呼ばれた事で、その考えを一旦保留し、自分も用意の途中であった事を思い出して若干慌てながら、すずかの元へ向かっていった。
まあ、答えの出えへんもんを幾ら考えてもしゃあない。
ぼんやりと、そんな思考を浮かべながら。
朝焼けとも夕暮れとも違う空の色と共に、その場所を独特の空気が包んでいる。
あえて表現するならば、時の流れから切り離された墓標、とでも言うべきか。
主のいない剣が連なるその場所を眺めつつ、彼は自分がここにいる理由を考えていた。
自分はすべてを終え、あの場所に戻ったはずだった。それがなぜ、借り物であったはずの世界に身を留めているのか。
答えは笑えるほど単純だった。
決まっている。まだやることがあるからだ。遠く遠く……一人の男が幾星霜の時の流れの果てに手に入れた、ひとつの答え。
その場所に他ならぬ自分が立つとは、何と運命の皮肉なことか。
良いだろう。自分の役割を果たせというのならば、素直に乗ってやるとしよう。運命(きゃくほん)を変えるのは何も黒幕(かんとく)だけの仕事ではない。「裏方」としてやるべきことはやらねばならない。
すでにいくつかの自分が蒔いた種は、確実に芽を伸ばし、結果を出さんとしている。
そのことをほくそ笑むでもなく、表面上は心底つまらなそうにやれやれと肩を竦めながら、その目を空へと伸ばす。
自分があいつと出会うのも、そう遠いことではない。まあ、再会の喜びなど無く、会った瞬間その存在をかけて殺しあうだけであろうが。
ただ、ここまでお膳立てしてやっているのだ、結果を出さねばこちらとしても立つ瀬がない。
それを考えると……少なくとも今はまだ安心できる状況ではないようだ。長い付き合いとはしたくないが、こればかりは致し方ない。
さて、次はどう動くか。
それを考えると同時、やがて世界から、彼の存在は掻き消えていた。
まるで最初からいなかったというように、主のいない墓標だけを置き去りに――――。
Act.9 END