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アリサ・バニングスと言う少女は、世間一般の常識から言えば「お嬢様」といって良いだろう。
腰まで靡くブロンドと翡翠の瞳、常に自信ありげな態度から少々気性が荒い面があるものの、九歳にして学業、運動、趣味その他で遺憾なく才能を発揮し、眩しい太陽を思わせる癖のない明るさと含めれば、将来的には十分立派な貴婦人(レディ)として成長するだろう見込みはあった。
本人がやたらと庶民的な事もあり、今の時点ではそう認識する者の方が稀ではあるが、それでもふとした時にそんな生まれ持った「格の違い」が現れることはあった。
例えば、この少女が通う学び舎である私立聖祥大附属小学校において、専属運転手付きのハイヤーで乗り付け、あまつさえ「お嬢様」と呼ばれ傅(かしず)かれたりするのがそうだ。
だが、そんな状況を吹き飛ばしてしまう例外も……たまにだが、ある。
「…………」
無言で見つめ上げるその顔は、信じられないという表情で固まっていた。
きっかけは、何でもない事だった。高い木に登った子猫が下りられなくなったということだけ。
その事に気づいたアリサが、木の上を登って行って、捕まえたのは良いがそのままバランスを崩し、あれよあれよという間に落ちていってしまっただけの話だ。
誰かの悲鳴が聞こえる中、アリサはどこか人事のように、冷静な部分で判断していた。
ああ、このままだと落ちるな、と。
取り合えず子猫の安全だけを主眼に、反射的に受身を取ろうと身体を丸めた……その瞬間。
考えられるだろうか。
まるでテレビの中のヒーローのように、颯爽といった様子で駆けつける人物がいる等と。
一瞬の浮遊感から、まるで壊れ物を扱うようなやさしい温もりが一瞬だけ自身の体を包んだ……と思った瞬間、大きな音と共に目の前を強大な影が覆う。
体感したのはほんの数秒か、思わず目を瞑ってしまったためまるで一時間以上体感していたように錯覚したが……気が付けば、揺れは殆ど収まっていた。
恐る恐る開けた瞳に入ってきた顔に、彼女は驚愕することになる。
「っと……大丈夫か?」
赤い髪に、執事服を違和感なく着こなす年上の少年は、困ったように笑いながら、そんな少女に対し頬を掻き……つ、と流れ落ちた一筋の血がその手を染める。
「! 血が!」
「へ?」
まるで今気がついたと言う様に、キョトンとした顔で腕……鋭い枝の刺さった二の腕の部分、そして、そこから滴る血を見つめる顔、それを見た時……何故かアリサはぞくり、と悪寒が背筋を走るのを感じた。
この人は、自分を助けることに躊躇しなかった。死に物狂いと言う訳ではないが、それでも相当な無茶をしたことには変わらないだろう。平然としているので大した事無い可能性もあるが、十中八九やせ我慢の類だと、アリサは想像した。
自分に対して傷みを見せることを、年上の意地として拒否しているのかもしれないが、それにしてもまるで今気付いた、と言うようなその表情は、一般的な人間のそれから言えば、異常に写るものである。
更に言うならば、罵倒も叱咤もなく、ただ「良かった」と心からの笑顔であろう……それを向けられるのは嫌ではないが、血を流しながらでは逆効果であろう。取り合えず、スプラッター映画の登場人物のようで、見た目余りよろしくない事は確かである。
余りにも規格外なその少年……衛宮士郎の行動に対し、今日何度目かになるか判らない呆然とした様子のアリサは、士郎の続く言葉に即座に反応できなかった。
「取り合えず、立てそうか?」
「え……っ!」
士郎からの言葉で、自分がどのような状態だったのかを理解したその瞬間、火が出そうな表情で……先ほどの士郎への疑問よりも羞恥心が勝り、子猫を抱えた状態でなるべく早めに離れようと、その手から滑り落ちる。
さり気さを装いつつも、若干頬が赤くなってしまっているのは……まあ、仕方の無い事かもしれない。こほんとわざとらしく咳払いして誤魔化そうにも、タイミングが悪い。
ここから離れた場所で自分たちを呼びかける声に、さて、どう対応しようかと悩みながら……事、ここに至るまでの経緯を思い出す。
切欠は今日の昼休み、友人の月村すずかの変化を問い正した所から始まる――――。
-1-
すずかの機嫌がこの所かなり良い。
そのことを自覚したのは、数日前、折りしもフェイト・テスタロッサの転入で騒がれた日の事である。
当初、アリサはフェイトの転入について、なのは達と一緒に喜んでいるのだろうと適当に理由付けていたのだが、それにしてはどうにも様子が変だ。
いつもニコニコと菩薩のような笑顔を振りまき、アリサを含めた三人……今は四人の集団の中でも、新参のフェイトに続き穏健派である彼女は、総じて喧嘩などの仲裁に入ることが多い。
いつも控えめに微笑む姿は、アリサとは対照的に、ゆっくりと穏やかに包み込むような大人びたものであり、年齢不相応に謎めいた部分……と言うよりも、彼女たち四人が特別な部分もあるが……から、表情の機微で機嫌を伺うのはそれなりに付き合いが必要となる。
「何か、なのはだけじゃなくて、すずかも最近機嫌良いわよね?」
「え?」
だから、そんな風に切り出したアリサに、当初すずかは困惑の表情で押し黙った。
昼休みの私立聖祥小学校の屋上。
十二月と言う事で、寒風吹き荒ぶ屋上で昼食会と洒落込むには少々辛い時期ではあるが、今日に限っては、冬にあるまじき暖かさが海鳴の街に漂っており、それに惹かれたのか、ちらほらと別のクラスの生徒達の姿も見える。
そんな中、新しくフェイトという仲間を加えた四人組は、近くのベンチで纏まって、他愛のない話に華を咲かせていた。
大抵はなのはとフェイトの仲の良さを冷やかしたり、どれだけなのはがフェイトと再会出来る事を期待していたのか……というの話題ばかりで、いい加減話題の方向性を変えようとしたアリサが、思いついたように「そう言えば」と始めたのが切欠だった。
いきなり水を向けられたすずかは、虚を突かれたかのように目を丸くする。そんな彼女を静かに見据え、アリサはさらに疑問を口にした。
「この前会った時なんか鼻歌歌いそうなくらいにニコニコしてたし、最近良い事でもあった?」
「え、そうなの?」
アリサの言葉に驚いたようになのは、そして不思議そうな表情でフェイトが顔を向ける。急に集中した視線に、すずかの頬が照れたように赤く染まる。
「え、えっと、そんなに機嫌良い様に見えた?」
「そりゃあんた、こう見えてそれなりに付き合いが長いんだから、それくらい気づいて当然でしょう?」
迷いなくきっぱり言い切るアリサに、驚いた様子でなのはが口を挟んだ。
「え? 私気付かなかったけど……」
「なのははボケボケ過ぎるのよ。第一、あんたはフェイトちゃんフェイトちゃんって、フェイトの事ばかり話題にしてたじゃないの」
「……ボケボケ」
その言葉に、なんともいえない表情で押し黙るなのは。それをよしよしと慰めながら、フェイトが控えめに口に出した。
「本当なの? すずか?」
基本的に同じ性格の少女ではあるものの、やはりと言うべきか友人の機嫌には興味あるらしい。半年前とは比べ物にならないその変化が、良い兆しである事を本人は自覚してはいないのも彼女らしい。
その変化を微笑ましく感じている人は確かに存在しているが。某、未亡人の美人艦長等はその筆頭だろう。
「え、えっと……多分、数日前に雇った新しい使用人さんが関係してるのかも」
「使用人? ノエルさんとファリン以外にも誰か雇ったの?」
アリサの言葉にゆっくりと首を縦に振るすずか。それを見てアリサは元より、なのはも驚いた顔をする。
すずかの実家である月村家は、海鳴市からややはずれた、郊外の別荘地帯に居を構えた屋敷である。その規模はアリサ家の屋敷にも匹敵し、近所からは「月村の猫屋敷」などと呼ばれる位の猫の楽園になっている。
だが驚いた事に、この屋敷に住む人物は、目の前のすずかを除けば、わずか三人しかいない。すずかの姉である月村忍、世話役として姉妹のメイドであるノエル・K・エーリヒカイトとファリン・K・エーリヒカイト。
当主である月村忍がどういう方針で人を雇っているかは知らないが、月村家で従事するメイドは今のところその二人だけであり……アリサ曰く、月村の七不思議と言う位、二人だけのメイドで屋敷を維持できる現状こそが異常と言えば異常だった。
それが人を雇い入れたと言う話になれば「終に処理の限界が来たのか」と野暮な考えが浮かびそうだが、現状、二人で回せていた状況で、第三者が簡単に介入するのもピンと来ない。というのが、満場一致の意見であった。
「ん……? ちょっと待ちなさいよ。私がちょっと前にすずかの家に遊びに行った時には、そんな人いなかったわよね?」
アリサとすずかは共に習い事であるバイオリンを習っている関係で、ちょうどなのはとフェイトのように、二人だけで行動する時というのも(微々たる差ではあるが)他の二人よりも多いのだ。
数日前のいつもの帰り道で、すずかのお誘いに応える形で向かった月村の家には、そんな人物の姿は記憶していなかったはずだが……あの時には別の場所で仕事をしていて、偶々会わなかったということだろうか?
そんな風に疑問を持つアリサを、なぜか困ったように苦笑して見つめながら、すずかは応える。
「あはは、ちょっと色々あって、働き始めたのつい最近になってからだから。雇うって事自体急な話だったし」
言いつつ、何故かちょっと自慢げに語り始めるすずか。
初めにその人物に会ったのは図書館だったという。面識の無かった二人を引き合わせたのは、図書館側のミスによる事故であったとか。
その後、再会した時は、何故かファリンにつれられて屋敷の様々な場所を案内されていた状態で、全くの偶然だったらしい。
聞くところによると、何でも数年前までイギリスで執事の勉強をしていたらしく、家事、炊事、洗濯から機械修理や単純な肉体労働など、あらゆる面で主人のサポートを行っていた時期があったらしい。そこまで聞いた所で、アリサが何かに気付いたかのようにはっとして声を上げる。
「ちょっと、執事ってことは男の人? 鮫島みたいな感じの?」
「ううん、歳はお姉ちゃんや恭也さんと同じ位だよ」
「……それ、大丈夫なの?」
女系で占められた月村家に対する「万が一の間違い」に対する危惧であったのだが、それに対するすずかの言葉は、いまいち理解していないような、不思議そうなものだった。それだけでも、両者の温度差というものが如実に現れている。
「? うん、何でも前に居た場所でも男は自分一人だったから慣れてるって言ってたけど?」
「その人って、借金がウン億円あったりとか、乗用車に自転車で追いついて、挙句撥ねられても大丈夫だったりとか、天然ジゴロだったりしないでしょうね?」
「えっと? 何の事?」
「……なんでも無い。忘れて」
どうも、こちらが気を回すのが馬鹿らしくなるくらい暢気な答えである。しかし、女性ばかりの場所で「慣れてる」とは……一体、月村家に来るまではどういう生活だったのだろうか?
そんな風に悶々と考えていたアリサの傍らで、こちらも興味深げななのはとフェイトが話に加わる。
「でも、それだけ凄い人ならちょっと会って見たいな。フェイトちゃんもそう思うよね?」
「えっと、そう、かな?」
不思議そうに首を捻るフェイトに対し、アリサが言う。
「何か、微妙な反応よね」
「あはは……私が昔住んでた所でも、それくらい凄い人がいたからかな。それと比べてるからかもしれない」
「何気にあんたもお嬢様か!」
「ひゃ! ア、アリファ、ひょ――」
徐に両頬を手で掴んで引っ張るアリサを何とか静止しようとするフェイトだったが、そういう対応に慣れていないためか、どうすれば良いのか分からず為すがままである。
そんな様子を悪いと思いつつもくすり、と微笑みながら顔を見合わせるなのはとすずかに対し、存分に堪能したのか、アリサが唐突に頬を離しながら言葉を発した。赤くなった頬を少々涙目でさするフェイトへと視線を合わせないようにしているのは、わざとなのか、罪悪感があったからかは分からないが。
「決めたわ! すずか、今日暇だったわよね?」
「う、うん。放課後は何にも無いけど……」
「だったら丁度良いわね。なのは達は?」
彼女が次に言いたい言葉は分かっている。今日、件の少年執事に会いに行こうというのだろう。
その事をを理解しながら、なのはとフェイトは共に困ったように顔を見合わせ……少々、悩むような素振りを見せた後、なのはが口を開いた。
「ごめん、今日は用事があるから。ちょっと……」
「私も……」
「あー、良いわよ。皆まで言わずとも」
本当に申し訳なさそうに語る二人を相手に、アリサは、苦笑しつつもすずかに向き直り、一つ頷いてみせる。
全く、こういった部分は羨ましい位ぴったり息が合っている。本人達には自覚無いのだろうが。
「二人の分まで私がどんな奴か見てきてやるわよ。というか、すずかにいらんちょっかいを掛ける様なら、私が成敗するわ」
「ア、アリサちゃん!?」
アリサの言葉に、唐突に何を言い出すのかと絶叫するすずか。それに対し、なのはとフェイトは苦笑しつつ見守っていたが……ふと、何かに気付いた様になのはが声を上げた。
「あ、そう言えば、その人の名前はなんて言うのかな?」
ここに来て、その「凄い人」の名前を聞いていない事実に突き当たり、徐に掛けた声。それに対し、アリサやフェイトも、そう言えば、といった感じで頷いていた。
「そういえば言ってなかったよね。えっと……」
すずかが何かを言いかけるものの、まるでその瞬間を狙ったかのように響く予鈴の音。それに対し、いまだ開きっ放しであった弁当箱、その他を片付ける為に奔走する羽目になった。
まあ、声を掛けたなのは自身、そう急ぎの事でも無かったので、結局はまた後で聞けば良いか、と考えた事もあるのだが。
結局、その日はそれ以上話題にも上がることは無く、続きは後日と言う事で、放課後、なのは等と別れた後に、アリサは数日振りに月村家へとお邪魔する事になったのである。
-2-
そうして、件の人物を見に来た……はずだったのだが。
「…………」
目の前の光景をどう判断して良いものか途方に暮れてしまう。
屋外のテラス。屋上での昼食会以後、その日差しは午後にも衰える事無く、冬には珍しい比較的穏やかな日中に、気を利かせたノエルが屋外でのお茶会を勧めたのが始まりである。
てっきりその時に例の少年執事が用意を行うのかと思っていたアリサは、いつもと変わらない様子に肩透かしを食らったが、普通に紹介されるよりも、ずっとインパクトのある状況に、用意されたミルクティーを飲む事もできず、唖然として固ってしまっていた。
遠め……と言っても五メートルほど先にいる一人の少年。赤い髪に、年の頃は自分よりも少々上か。それほど高くない背に黒い執事服、それを違和感無く着こなしながら、仏頂面にはやや困惑の表情を浮かべ、対応に苦慮するように、しかし、動作だけは機敏に動き回っている。
言わずもがな、件の執事こと「衛宮士郎」その人の姿だった。あんな状態で「彼が話していた人物だ」と紹介されても対応に困ってしまうのだが、そこはそれと言ったところか、すずか達に気にした様子は見られない。
「ほら、みんなの分あるから落ち着け……ちょ、おいくっつくなって」
その背中に張り付いた幾つかの黒い影こと、大量の猫達を従えた士郎の目的は、エサやりである。
月村家でも正確に把握していない数の猫達に対し、何処をどうやって調べたのか、それが決して不平等にならないように配慮した全ての猫の分のエサを用意し、ああやって日に三回、与えているとの事だった。
甘えるかのように組み付かれている様は微笑ましさを演出するが、度を超えればそれは滑稽さを感じ得て余りある。事実、足下まで擦り寄る猫を避けようとしつつ、餌とおぼしき大量の皿を両手に持ちながら、しかし全く危なげ無く持ち運ぶ姿は、執事と言うよりかは軽業師の芸当を連想させる光景だ。
「あはは、びっくりした?」
そんな風に声をかけられていることにすら気付かず、なんともいえない表情で固まるアリサに応えたのは、ニコニコと笑うすずかの姿だった。
「……いつもああなの?」
「うん。みんな士郎さんがご飯の用意するようになってから、すごく懐いちゃって、今はずっと士郎さんの行動を追ってる子がいるくらい」
大抵が子猫であり、あまりくっつくと危ないので、士郎がそんな子猫たちを丁寧に追い払うのだが、一時期はその対応だけに午前中全く仕事が出来ないといった、笑えない事態もあったりした。
普段無愛想に見える士郎が、大量の猫を何とか穏便に追い返そうとする姿は見ていて微笑ましかったので、月村家の誰もが積極的に協力しなかったという裏事情もあったようだが。
流石に見かねたのか、先ほどまでお茶の用意をしていたファリンが一緒になって対応してくれているが……目を放している隙に何があったのか、ファリンがペコペコと頭を下げてしまっているのを逆に士郎が苦笑しながら宥めている。
すずかに聞いた優秀な完璧超人ぶりを期待していただけに(まあ、あの格好で淀み無く自分の仕事を行っているというのは確かに凄いが)想像と大分違う光景だった事に一抹の失望を感じながら、ため息と共に少し温(ぬる)くなったミルクティーを今度こそと啜った。
(どうにも、ね。すずかの様子があれだったから、もっと面白いものが見られると思って……た……の……)
「アリサちゃん?」
そのまま、アリサの思考はピッタリ十秒間停止してしまう。
すずかの不思議そうな表情が、やがて何かを得心したように頷きに変わるのは、それでも数瞬の間が必要だった。
やがて、無表情の、しかしどこか動揺を抑えた感のするアリサが口を開く。ただ、動揺を隠そうとして逆に不自然jな仕草になってしまっている事に、本人は気付いているのか否か。
「――――すずか。この紅茶、葉を変えた?」
「うん。これ、士郎さんが買ってきてくれたんだ。入れ方も、師匠役の人直伝だって言ってた」
「……ふーん」
そう言いつつ、徐に菓子皿に手を伸ばし、載っていた菓子を摘み口へ放る。
しばし咀嚼しながら、先ほどと同じように……だが先程よりも深刻そうな顔でピタリと止まった顔に、流石に堪え切れなかったのか、今度こそくすくすと忍び笑いを漏らすすずか。
睨めつけるアリサの視線にも構わず笑い続けるすずかに、やがて一つ息を吐いて、徐にすずかを見返した。その表情から、漸(ようや)く笑いを収めたすずかが口を開く。
「ごめんね。でもアリサちゃん凄い顔してたから、つい」
「……まあ、否定はしないわよ。驚いてたのは確かだしね」
悪いと言いつつも、こみ上げてくる笑みを噛み殺す様に手で押さえるすずかを、ため息を吐きながら……黙認するかのように、顔をぷいっとそっぽへ向ける。
そうしながらも、目線は先ほどのお茶請けとして出された皿へ向いている。
「つかぬ事を聞くけど……まさか、このお茶菓子も」
「うん。士郎さん作」
「…………」
それだけで十分だったのか、むう、といった可愛らしい声を上げたまま唸る様に黙り込むアリサ。そしてその視線が再び士郎へ向けられる。
先ほどの状態から、今度はどういう経緯を経たのか、士郎が持っていたはずの皿の何枚かがファリンの手に委ねられている。
そしてそれに伴って大量に組み付いた猫……恐らくエサ目的……をいなそうとして、ふらふらと覚束(おぼつか)ない足取りで歩き出すファリンを、慌てた様子の士郎が何とか支えようと躍起になっている。
ああ、これはユーノを始めてここに連れてきた時のように皿をひっくり返す可能性があるな、とぼんやりと考えているうちに、
「なんと言うか、確かに『凄い』わよね」
そう、ぽつりと一言だけ、無意識に口を開いていた。
アリサ自身は、紅茶やお茶菓子についてそれほど詳しいわけではない。確かに実家ではアフターヌーンティーの嗜みというものはあるが、精々休憩の時か、偶の社交辞令位の付き合い程度であり、本人はいたって現代っ子を自称するなんちゃってお嬢様のつもりだ。
そんな上級階級の嗜みに、士郎が出した物と普段家で出されるものそれぞれにはあって、無いものが存在している。
一言で言えば……給仕するための人の立場に立った、思いやりとでも言おうか。
冷めても、いや予(あらかじ)め冷める事すらも考慮して入れられた紅茶は、ミルクティー向けのアッサムティーを主体としており、ある程度の温度変化は必然とは言え、温過ぎれば不味くなり、逆に熱過ぎれば火傷するそれをそこまで考えて入れたとするのならば、この人物の心遣いはかなりのものであろう。
滅多な事で人を褒めない某陶芸家をも唸らせるか大笑させるかといった手並みだと(そう言えば名前も士郎で、犬猿の仲の息子と一緒だ)取りとめの無い事を考えた内に。
「あ」
と言うアリサの口調と共に、ファリンが盛大にすっこける映像が目の前で展開された。
そこから先は正に死闘とも、地獄とも言える光景だった。
こけたファリンを踏み台に、餌に群がるリトルキャッツ。何とか助け起こそうとする士郎に、流石に見かねたのか対応に出るノエル。
徐に視線を移した後、一筋汗を垂らしながら、苦笑を浮かべているすずかを見つつ、溜息を吐いて無言でアリサは残りの紅茶に口を付けるのだった。
-3-
「お待たせいたしました……お嬢様」
「……ええと。はい」
あれから、数十分。本人達にとっては地獄絵図、見ているこちらからすれば滑稽以外の何者でもない騒動が一段落した後、先ほどの少年執事、衛宮士郎がお茶を入れ直しにやってきた。
見た目何でも無いかのように落ち着いているものの、着ているスーツが若干草臥(くたび)れている事は隠しようが無いらしい。まあ、敢えてその事を指摘しようと思うアリサではないものの、やはり気にはなる。
あれから、色々と士郎の行動を観察していたが、まず驚くのはその手際だろう。
被害が広がらないようにあれやこれやと手を回し、ファリンやノエルを置いて率先して事態の収拾をして、その実一番の被害を被ったにも拘らず、最後に一仕事終えた後のような晴れ晴れとした表情を見た瞬間、何とも言えない気分になったものだ。
士郎についての印象について纏めるなら、少なくともお茶出しについてはファリンやノエル以上かもしれない。
そして自分からトラブルに突っ込んでいく気質もある。責任感があるのか正義感気取りなのかは知らないが、困っている人を見るとそちらの方へと進んで行ってしまう癖があるらしい。
今も先ほどの騒動の後だというのに、唖然とした自分の場所へ何食わぬ顔で紅茶のお代わりを出しに来たその行動に、驚きを通り越して呆れてしまったほどだ。
と、さっきから遠慮なくくすくすと笑っていたすずかが、今度は士郎を見て微妙そうな表情をしている。
「あの……士郎さん?」
「何でしょうか?」
「…………」
その言葉に、すずかどころかファリン(こっちは結構ぼろぼろ)までもが微妙な表情でいるのはどう言う事か。長い付き合いだからか、微かに居心地悪そうに身じろぎしている様子が見て取れた。
これはあれだ。あまり表情に出ないから判り難いが、例えるならば初のバイトに意気込みすぎて微妙に丁寧語を間違えて返って失礼な対応してしまっているような印象である。
それにアリサが気付くのと同時、やがて自分の意識とは無関係に言葉を発してしまっていた。
「変な人」
「――――は?」
その瞬間、驚いた表情でこちらを向く士郎。言葉を発した本人は士郎を見据えながら、やがてポツリポツリと話し出した。
「上手く言えないんだけど……士郎さん? だっけ、貴方から丁寧語を使われると、その、とっても違和感が残って……ホンとに上手く言えないんだけど」
と、そこまで話して、初対面の相手に対しかなり失礼な物言いをしていることに気付いていたが、今度は半ば呆然とした様子でアリサの台詞を聞いていたすずかが、やおら悪戯を企むかのように声が聞こえた。
「うん、なんか丁寧な口調の士郎さんって違和感あるなぁ」
「な、ちょ、すずかちゃんまで!」
思わず叫んでしまってから、はっとなったように口を噤む士郎。言葉遣いが元に戻ってしまったことに気付いたのだろう。
アリサは、そんな士郎の態度にどこか頑ななものを感じた。まるで一度同じような行為があったかのように。営業スマイルからむっつり顔に逆戻りとと言う、どこか忙しい人だなと思ったのは秘密である。
「士郎さんも普通に話したほうが良いと思いますよ。いつもはそんな風な言葉遣いじゃないじゃないですか」
「……いや、しかし……ご友人の前ですし……」
「ほら、また」
「…………」
普段のすずからしからぬ容赦のない言葉に、士郎は暫し沈黙し……やがて一度だけ大きく溜息を吐き、思考を切り替えるかのごとくすずかの方へ向き直った。
他ならぬ仕える主……いや、そこまで大層なものでなくとも、雇い主直々の頼みである。疎かにするのは流石に気が引けたのだろう。やり切れなさそうなどこか哀愁染みた空気を纏いながら、観念した様子で士郎が語る。
「分かったよ、すずかちゃん……これで良いのか?」
「うん」
頷くすずかに対し、もう一度深い深いため息をつく士郎。
その様子だけで、先ほどまでの完璧さ……いや、完璧さを演出した不自然さと言うべきか、その空気が鳴りを潜め、どこか所帯じみた空気に変わる。その様子から、彼がどこか無理をしていたように感じるのは……自分の思い違いか否か。
「はー、何と言うか、いつも言われてたんだよな」
「?」
やれやれと言った感じで溜め息を吐きながら、首を振る士郎は、先ほどまでの丁寧語が嘘のように砕けた口調であった。
まあ、鮫島ぐらいの年齢ならば兎も角、自分たちと十も変わらぬ年齢の人間が、丁寧語を使って対応するのはやはり違和感があったので、これぐらいが丁度良いかもしれないが。
そんな少年が思わずといったように開いた口、その言葉に、不思議そうな表情のアリサは、後を続く言葉に、さらに驚くことになった。
「昔、執事の勉強中にも丁寧語に直しての会話もした事あるんだけど……知り合いはみんな笑うか睨むかのどちらかだったからな。曰く『シロウに丁寧語は似合わない』だとか『馬鹿にされているように見える』だとか……今考えても散々な言われようだったな」
「皆さんって、『家族』の?」
「ああ。まあ、そういう事を平然と言ってのけるのはどうかとも思ったけど……師匠からは『気合が足りないからです』とか言われてたし、このことに関しては四面楚歌というか、孤立無援だったな」
そんな風に、どこか黄昏(たそがれ)ながら、ぽつぽつと過去を語り始める士郎。
衛宮士郎という名前から日本出身だろうことは想像していたが、事もあろうに彼がイギリスからの帰国子女とは予想の斜め上を行かれた気分だった。てっきり使用人としてイギリスに行ったのだとばかり考えていたのだが……。
貧乏旅行同然の身支度で家族に別れを告げたはいいものの、生活費に余裕のなかったイギリス時代。職を探して出会った青い少女と、共に行った赤い少女とのいざこざ。執事になるまでの艱難辛苦といったものを表向き何でも無いように語る姿は……内容が内容だけに、普通(?)に恨み節全開で語られるよりも、その悲劇度は高い。
話に出るのは五人ほど。先ほどの赤青の少女と共にその全てが女性という華やかさでありながら、先ほどの苦労話と相俟(あいま)って、余り色っぽい話は見られず、逆に苦手意識の方が強いというのは……より不憫に思ってしまうのは流石にどうだろう。
女性だけの集団で、気圧される事の無く仕事をする様を当初はプロ意識からと見ていたが、どうやらそれだけでは無かったらしい。やたらと女性に囲まれ過ぎな気はしないでも無いが。
中でもセラという人物の事を語る時、遠い目をしながら平坦な声で話す様は、流石にあれだった……何と言うか放って置こうかどうするか判断に迷うような視線だったとだけ言っておこうと思う。
(やっぱり……変な人)
-4-
話が一区切り付いた所で、仕事が残っているからと言い残し、一人その席を辞した士郎に対し、思わず溜息を漏らしてしまうアリサ。
流石に初対面の相手を「変な人」扱いしたのは失礼に過ぎたため、その後に謝ると「まあ、慣れてるから」などといったニュアンスの言葉と共に、気にしなくていい旨を伝えてきた。その態度がそう思われる問題のような気がしないでもないが。
度量が深いのか結構なお人よしなのか……アリサの直感的には後者だと訴えかけている。
ただ、どうにも納得できないものがアリサの中にはあった。
確かにすずかの言う通りに、一筋縄ではいかない人柄なのかもしれない。ただ、何かもう一押しに欠けるというか……面白みに欠けるような気がして、いまいち彼の心情を把握できないのだ。
そして、士郎が身の上を話した時に、本当に微かとはいえ見せた違和感。それが何なのかと問われても答えようの無い何か。
何があると言うのか。これが推理小説ならば、犯行を解き明かすトリックの一つでも隠されているのだろうが、生憎と、体は子供で頭脳は大人、のような展開が有り得るとは思えない。
悶々としながら、端的にすずか達に相談して良い内容かどうかも迷ったので、暫くはつらつらと取り留めの無い事を語り続けていた。
学校の事、習い事の事、最近のテレビやゲームの事、そして終ぞは将来の事まで。小学生の時分でそこまで深く掘り下げて語り合うというのは、傍から見ると異様に映るが、本人達はいつもの事なので大して気にはしていない。
そんなアリサが「それ」に気づいたのは、まったくの偶然と言って良かった。
「ん……?」
にぎやかな談笑の口休めに新たに入れ直して貰った紅茶を一口、口に入れた時だった。
「ねえ? あそこにいるのって子猫じゃない?」
「え?」
アリサが指差す方角へ向けて、視線を向けるすずかとファリン。
三人の視線の先は月村家裏手の森の入り口に集中している。そこの一つの木……いや太さ的には大木か。果たして、そこには黒い子猫と思しき物体が蹲(うずくま)って震えていた。
此方からでは詳細は確認できないが、どうやら樹に登った後に降りられなくなってしまったらしい。良くあると言えば、良くある話ではある。
少なくとも月村家では、時に猫たちがそのような状態に陥ってしまうことも珍しくない。子猫達ならば尚更である。
「本当……降りられないのかな」
「足が竦んで動けないみたいですね。梯子を持ってきましょうか?」
「うーん、そう簡単には助けられそうにないように感じるんだけど。あれ、結構な高さがあるわよ」
お茶会を中断して集まった場所。そう言って見上げる場所は、月村家の庭に群生する木の中でも指折りの高さである。その場所、樹の根元で見上げてみると、さらに高いようにさえ錯覚する。
梯子で届くかどうかは微妙な距離でもあり、万が一、猫の方が怖がってバランスを崩してしまえば元も子もない。
生憎、今この場にいるのは月村家の年少組とアリサの三人だけである。他の三名は丁度別件で邸内のあちら此方に散ってしまっていた。
さすがにそんな状態で助けに行くのは無謀と感じたのか、ファリンがノエルか士郎を呼んでくる事を提案したものの、今にも落ちそうなその様子に、事を起こすには時間が足り無そうな雰囲気だった。
そうなると……結論は早い。
「しょうがないわね」
表面上はやれやれと言った様子で首を振るアリサに、すずかとファリンが驚いたような表情で見据える。
「ここは引き受けるから、すずか達はノエルさんか士郎さんを呼んできて。梯子も一緒に持ってくるようにね」
「え、ア、アリサちゃん! まさか」
そのまさかを実行しようとしている事に、この時点では確信に近い物をすずかは抱きながら、それでも敢えて問い返す。その疑問に、苦笑を交えたアリサの顔から、想像した通りの答えが返って来た。
あの猫を助ける。
本来ならば『お客様』の立場であるアリサに、そんな事をさせるのは二人とも認められず、運動能力ならばすずかもアリサに負けていない旨を主張はしたが、思ったよりもアリサの意志が固い事と「一人で呼びに行くよりかは、すずかとファリン、二人で呼びに行く方が効率も良い」と言われ、逆に説得されてしまう羽目になった。
それでも一抹の不安が消え去らない二人は、無理はしないように言付けた後、徐に踵を返して走り出した。
その様子を確認した後、改めて頭上を見上げる。
文武両道の例に漏れず、運動も人並み以上にこなすアリサではあるが、事、木登りのようなお転婆を行った事は流石に少ない。そんな事をもし行えば、両親から大目玉を食らうことは明らかだったからだ。
これがもし、普通の公立の小学校であった、または普通の中流家庭の出身であったならば、性格的に男子に混じってのやったこともあっただろうが、罷りなりにも名門と名高い聖祥の学生である。流石にそこまでの行為を行うことは躊躇(ためら)われたのは確かだった。
多少の不安は残るものの、まあ大丈夫だろう。高所恐怖症というわけでもないし等と、わずかに滲み出た恐怖に蓋をする。
「さて、と」
改めて見上げるのも飽きたのか、一つ大きく息を吐き、腕をぐるぐると回しながら、わっしと掴んだ樹の幹を、少ない取っ掛かりを元に上り始めた。
こういう時のアリサははっきり言えば行動力の塊である。どんな事があっても、諦めずに何かをやり遂げる、そういった自信と確信に満ちた表情。
真っ直ぐな心根を良く表していると言っても過言では無いそれは、裏を返せば、危うさと同義なのだが……それに気付くには、少々アリサも経験が足りなかったと言えるだろう。
制服を汚すと大変だとか、スカートを大胆に捲り上げたりだとかはこの際関係ない。……関係無いという事にしている。
ただ、彼女自身、こんな事を自分がするようになるのだとは、昔の頃からは考えもしなかった。
(全部……あの時、か)
昔のアリサは、今程すずか達と仲が良い訳では無かった。
有り体に言えば、見下していたと言っても良い。高飛車と言わずとも、常に誰かと争い優越感に浸る様は、今でこそ恥ずかしいと言えるものの、当時はそれを正しいと信じて疑わなかった。
すずかに始めて会って一緒にいた理由も、友愛でからはなく、弱者を甚振(いたぶ)る事に快楽を見出す、サディスティックな面からである。
お気に入りと思しきヘアバンドを隙を見て奪い取り、取り返してみろとばかりに高々と掲げ上げる。
すずかの方も必要以上に強く出られず、返して欲しいと叫びながら高く掲げられたそれを何とか取り返そうと悪戦苦闘する。
屋上と言う限られた場所に人気は無く、助けも入らないはずの場所。
だが、そんな場所に、第三者が介入する事など想像もしなかった。
「?」
自分を見つめる視線に、怪訝そうに振り返る。
目の前には、栗色の髪をピンクのリボンで左右に分けた、一人の少女が立っていた。
同じクラスメートだったか。細かい事は思い出せないが、何度か目にした事はあった。
学級委員という訳でもなかったはずだが……ご丁寧に説教でもしに来たのだろうかと、その時はそんな風に思っていた。
「何よ、あん――――」
だから、その次の行動に、反応できなかった。余りにもアリサの予想の斜め上過ぎたためだ。
皮と皮を打ち合わせるような乾いた音と共に、一瞬、視界が九十度ほど左にブレる。
一瞬何が起こったのか理解できなかった思考は、やがて頬を焼け付くような痛みが襲うと同時に、相手に対し呆然とした表情を返す事しか出来なかった。
目の前の少女は、問答無用で自分の頬を叩いたのだ。思考する暇すら与えず、完璧なタイミングだった。
その行為が行われた事を理解すると同時に、ふつふつとした怒りが湧き上がってくる。
両親にすら手を挙げられた事の無かった、自分の頬を叩いたのだ、そのショックから、冷静な判断力すら失い、気が付けば、目の前の少女に掴みかかっていた。
それから先はあまり良く憶えてはいないが、大人しく内気な性格と思われたすずかが大声で静止を掛けるまで、醜い取っ組み合いは続いたらしい。
それから話が教師に伝わった事を受けて両方の親が出てきてしまう程の騒ぎになってしまい、アリサもきつく言い含められた記憶がある。
傍から見れば不快感その物でしかなかった喧嘩も今では良い思い出としての語られるのも……まあ、悪くは無いと言えるだけ、自分も成長したのだろうか。
止め処ない思考の果てに、やがて頂上付近に辿り着いた。黒い塊を見つけ、震える姿に手を伸ばす。子猫の方はその手を逃れようと必死に後退するが、落ちないように後退するにも限界がある。
「ほら、何もしないからこっちにいらっしゃい。落ちるわよ」
そう言って声を掛けるが、猫の方は中々こちらに寄って来ない。
イライラとしたアリサが、無理やりにでも引っ掴んでやろうかと考えるが……寸でで思い止どまった。
もし、そんな強硬な態度に出れば、ますます怖がらせてしまう危険がある。
知らずに落ちてしまっては元も子も無いし、立場は違えど、弱者を力で押さえるのではあの時の教訓を全く生かしていないようで、少々悔しかったのだ。
「落ち着きなさい。誰もあなたの事苛めたりしないから……」
そういって手を伸ばすものの、やはり怯えて動き出さない子猫を、ため息を吐きつつ、さらに身を寄せた……刹那。
ばきりという音共に、自分と子猫を繋ぐべき空間が、1メートル程の感覚を残し、消失した。
「へ?」
咄嗟の判断で子猫の側へ手を伸ばすが、子猫の方も危ういバランスで保っていた体を空へと投げ出してしまったところだった。
「ちょ!」
一瞬の判断が功を奏したのか、何とか黒猫の首根っこを掴む事に成功する……が時既に遅し。気づいた時には、アリサ自身も空中へと身を投げ出していた。
数瞬と持たぬ浮遊感は、直に落下のエネルギーに変えられて、アリサに重く圧し掛かる。子猫を少々乱暴に胸に抱え込みつつ、その無事を確認しよう暇も無い。
(あちゃあ……失敗したなあ)
足元から誰かが悲鳴を上げる声が聞こえるが……どこか悟ったような思考で自身の失敗を振り返る。
ああ、このままだと落ちるな、と、変に冷静な思考で内情を吐露したところで、現状は変えられない。
木を上る途中で下を見た事は無かった(見たら足が竦みそうだったので、あえて見なかった)が、上から見上げた時はそれなりの高さがあったのは覚えている。
このまま落ちれば、下手をすれば怪我をする可能性すらも含む現実を前に、取りあえず子猫の安全だけは優先しようと、強く抱え直した。
成るべく痛い思いをしないと良いな……等とぼんやりと考えていた……その時、
それは唐突に「やって来た」
最初は、突風が来たのかと勘違いしたほどだ。其れほどまでに速く、黒い「何か」が視界を覆う。
(え……?)
風の中に身を晒していた筈が、気が付けば暖かい感触に抱え上げられ、先ほどまでの浮遊感が少しだけ減退していた。驚き、突然自分を覆った影の存在を訝しく感じ、視線を上げる。
「っ!」
捕らえた光景を、アリサは最初、目の錯覚かと疑った。
白く、やや煤けた感じのある髪質に、浅黒い肌。何処か遠くにあるような視線はそれだけで相手を射殺せるかのように鋭く、深い瞳の色は、達観したような光が点る。
呆然として、誰……と誰何の声を上げる事すら忘れていたその瞬間、その口から言葉が発せられた。
「すまん、少々手荒くなるが、我慢してくれるか?」
「へ?」
どこかで聞いたような声をその耳にしたと理解するのとほぼ同時、落下の衝撃で撓(しな)っていた木の枝が、その反動でこちらに襲いかかって来た。
「っ!」
ベキベキと何かがへし折れるような音が続けて響き、頭を右左にシェイクされる。
ギュッと瞑った目と何とか取り落とさないように抱えた猫を守るかのように蹲(うずくま)る。子猫が僅かに声を上げるが、構う暇は無い。
いつまでも続くかと思われた落下感……それが、一際大きな揺れと共に、腹中に響くかのような衝撃を残し治まる。それと同時に、不思議な静寂がその場を支配した。
「……?」
恐る恐る目を開けてみる。
暗闇だった世界に光が差し込んできた事で眩しそうに目を細める。その視界に入ってきたのは、逆光に眩む影だった。
「っと……大丈夫か?」
その声、そして姿に、アリサは二度目の息を呑む事になった。
「……士郎さん?」
「?」
呆然とした声音に対し、士郎の方は不思議そうな顔でアリサを見つめる。
未だに揺れる脳を制そうと、おでこに手を付け二、三回頭を振りながら……やがてその腕から流れる血に驚き、悲鳴をあげるのに時間は要らなかった。
そんなアリサの様子を、困ったような顔で見つめる士郎に、助けられておいてなんだが、アリサの方がぞっとするような表情で身構えてしまった。
痛くは無いというのか……何故か、自身の体を一個の「機械」のように置き換えている気がして、不快感を覚えたと言う事もある。だがそれ以上に、見た目が余りに痛々しくて見ているこちらが落ち着かないと言うのが本音だった。
案の定、その後にやってきたすずか達に驚かれ、珍しくファリンが憤慨し、年上に説教をするファリンと言う非常に珍しい光景も目にしたものの、それに感慨を抱けるほど、アリサは達観していなかった。
-5-
あの後、大丈夫だと言い張る士郎を差し置き、すずか、ファリン、ノエルの満場一致で病院での手当てが決定し、士郎の方も渋々といった感じでそれに従った。
まあ、あの状態で応急手当だけで仕事をこなそうとする士郎に、あの三人が笑顔でプレッシャーを放ちながら病院へ行けとばかりに慇懃に迫られれば、殆どの人は従うだろうし、アリサ自身もそんな状態でも仕事をしようとする士郎を叱り付ける位の事はするだろう。
中でも、ノエルには「ただでさえ働き過ぎなのですから、たまには休んで下さい」と心から心配そうな顔で言われたのが効いたのか、黙ってノエルが運転する車で海鳴大学病院へと搬送されていった。
そんな様をみて、何となく忠犬が飼い主に怒られている様を想像してしまい、何とも言えない気分になる。
「大丈夫だった?」
「え、ええ……」
未だに目の前で起きた出来ごとに順応出来ていないのか、呆として答えるアリサ。
結局、浮ついた気持ちで調べる気であった事ですら、今となってはどうでも良いような気持ちになってしまった。それだけ、あの光景はインパクトが有り過ぎたのだ。良い意味でも悪い意味でも。
「あたしもこの子も怪我一つ無いわよ。士郎さんのおかげで」
そうまで言って……しかし、納得は出来ない。
すずかを筆頭とする家族陣が褒める程の技能を持ち、無愛想に見えて実は表情豊かでコミカルさも併せ持つ存在。
苦労人で、少々情けないとすら感じる気質は、だが必要時においては誰よりも早く駆け付け、文字通り「身を挺して」誰かを救うことが出来る人。
「本当、何者なのよ。あの人……」
そんな風にぼやくアリサが思い浮かべるのは、落下直後に見たあの顔と表情だった。
ここで無いどこかを見据えるような深遠な瞳は、深く穏やかそうに見えて、何処か悲しみを持っているように感じ、どこか切ない気持ちになったものだ。
その姿は……白昼夢と言って退けるには、あまりにもリアル過ぎるものだった。
そんな呟きが聞こえたのか、表情変わらず、士郎が行ってしまった先を見据えたアリサに、やがてすずかが思い出したように声を上げる。
「……士郎さんが、この家に来る前に、一度士郎さんに出会ってた事は、お昼に言ったよね?」
「え……?」
独白のような小さい声に振り向けば、すずかが真剣な顔でこちらを向いていた。
一体何を……と思う暇もなく、すずかは語る。
「今もそうだったけど、士郎さん、はじめて会った時も一人の女の子を助けようとして飛び出してた。あの時はいきなり大声出されてびっくりしちゃったよ」
そう言って、そのときの光景を思い浮かべたのか、僅かに苦笑するすずか。その顔が次の瞬間、やや翳(かげ)りを見せながら歪む。
詳しく話を聞いてみるに、図書館である少女(詳細は後で話すと言われたが、とても良い子らしい)に出会い、意気投合した二人が数十分ほど話し込んでいたときだったという。
行き成りの警告の声と、まるで突風が吹き荒れたのかというような、強い風を受けたのはほぼ同時だったという。
唖然とする間も無く、次の瞬間甲高さと鈍さを併せ持つ金属音の二重奏に、はっとしたようにそちらへ振り向く。
そこにあったのは本を被った車椅子と、それより少し先に倒れつつも顔だけを起こして苦笑する人物の姿。
なんてとんでもない人なのだろう。それがすずかの第一印象だったという。
「最初はさ、私もアリサちゃんみたいに驚いたよ。でも、暫く話している内に……それが士郎さんの中で『常識』なんだなって思ったんだ」
「常識?」
何の事を言っているか分からない、といった様子のアリサに、すずかは一言、
「正義の味方、そう士郎さんは言ってた」
「……は?」
唐突にそんな事を言い出したすずかに、アリサの目が点になる。
正義の味方。聞き違い出なければそう言っていたはずだ。だが、前後の脈絡無くそう言われれば、自分でも聞き違いかと耳を疑うだろう。その反応は当然だったのか、すずかも苦笑を更に深めながら続きを口にした。
「偶々だったんだけど、前に士郎さんの過去を少しだけ聞いたんだ。その時に、何でも正義の味方みたいなお父さんがいて、それに憧れたって言ってた。そんなお父さんになりたいとも」
「……随分とはっちゃけたお父さんね、それ。何? 『ゴル何とかの仕業だー』って叫んだり天上天下唯我独尊な性格してる癖にどこか甘かったりするようなタイプの人なの?」
「えーと、アリサちゃん?」
「……何でもない。忘れて」
本人のいない所でそんな事を聞くのは悪いとは思いつつも、結局好奇心に勝てず、すずかの話に暫し耳を傾ける。
話に寄れば、士郎自身は事故によって両親を失った孤児であり、その際に引き取ってくれた養父を実の父のように慕って育ったらしい。
普段はどうやって今まで過ごしていたのかと思うほどに家事全般が駄目な父親ではあったが、それでも彼自身からすれば正義の味方としてみるに足るだけの物を持っていたらしく、いつか父親のような存在でありたいと、そう思うに時間はかからなかったらしい。子供の頃はそれで随分とやんちゃな事をやったとか。
確かに、士郎のやり方を見ていると、そんな事を言い出しても不思議ではないような感じはある。だが不思議と、そんな士郎に対し、アリサ自身は笑うような事を控える傾向があった。
本来ならば、何を馬鹿な事をと一笑に付す事柄であろうが、それも士郎の表情を見ればそんな事を言っていられない気分にはなる。あの一瞬だけ見せた、心からの笑顔(だと思うもの)を見せられては邪推するほうが無粋に思えてくる。
「そんな風に一生懸命だったからかな。苦笑することはあっても、士郎さんを笑うような人はここにはいなかったな」
奇しくも同じ気持ちだったのか、そんな風に独白するすずかに、アリサは疑問をぶつける。
「士郎さんって、何の目的でここに……この街に来たのかな? 実家は海鳴りじゃないんでしょう?」
「それは……」
それまで饒舌だったすずかが、その言葉を聞いた時に、苦い顔で押し黙る。アリサにとっては何気ない言葉だったのだが……どうやら深い事情があるようではあった。それに気付いた、アリサが、言わないで良いと言うように、首を振る。
「ごめん。これ以上踏み込んじゃいけない事みたいね」
「そんな事は……」
「分かるわよ、隠してても。しっかし、すずかがあんなタイプに弱かったなんてねえ」
「――ふえっ! ちょ、アリサちゃん! お昼もそうだけど勘違いしてるよそれは!」
そもそも、彼の事は高町恭也同様、兄的な存在として感じているのであって……等と顔を真っ赤にしながら反論するすずかを微笑ましく思いながら……アリサは考える。
結局『噂の執事君』の面白い面……と言うか、すずかの「これ」もそうだが、それに関する事に関しては、どこか微妙な線引きになってしまったように思う。彼の事を説明しろ、と言われても、彼女自身のボキャブラリーでは語るには、少々酷な様に感じるのも確かだ。
士郎自身の内面にまだまだ隠されている面があると感じながら……まあ良いか、と気楽に納得付けた。
すずかの家にいるのならば、それなりに長い付き合いになるのかもしれない。会う機会があるのならば、いずれ分かってくる事もあるだろう。そう結論付け、日常の中に身を置いて、今は気ままに過ごすのも良い。
帰ってきたら、更にこのネタを引っ張ってやろうと内心ほくそ笑みつつ、アリサは去っていった士郎の姿を追うように、もう一度、視線を彼方へと投げた。
この時の彼女たちは知る由も無かった。
士郎の表情の意味、そしてその根本的な「歪み」を知る機会が訪れるという事に。
全ての答えは聖夜、夜天の星を雲が覆う夜に判明する事に、少女たちは微塵も気付いてはおらず、ただ、来るべき運命に向けて少しづつ、少しづつ時だけが満ちていった。
Act7.5 END